読み返した・・・
と言っても高校生だか浪人だったか40年も昔だから忘れているよと思いきや・・・
衝撃的だったんですね、読み進むうちに高校生だか浪人だったかの自分にどっか戻っていたらしい
どの辺がと言われても、40数キロしかなかった体重ではない
戦時中、軍の徴用船が難破し、北海道の洞窟で船長が3人の船員を食べたという話し
これは実際にあった実話をもとにしているのだが、話しの核心部分は戯曲として書かれている
武田泰淳言う『読む戯曲』、『上演不可能な戯曲』として、第一幕はマッカウス洞窟の場、第二幕が法廷の場
この第一幕の洞窟の中で、飢えの極限状況での人間同士が食い食われるという異常事態の戯曲が東北弁で書かれている
泰淳はこの戯曲に至る話しの中で、わかりやすい解説もしてくれてる
「野上弥生子女史の『海神丸』も、飢餓に迫られた海上で、死を眼前にひかえた船員達の演ずる殺人劇を精密に描写しています。『海神丸』では、船員の一人が肉を喰う目的で、他の船員を殺害しますが、ついに喰うことはしないのです。・・・ ・・・」
「大岡昇平氏の『野火』に於いても、主人公たる飢えた一兵士は、仲間から与えられた人肉(日本兵の肉)を口までは入れますが、ついに咽喉(のど)より下へは呑み下すことをしないのです。この一兵士は、無意味に土人の女を撃ち殺したりしている男ですが、『僕は殺しはしたが、食べなかった』と、かなり倫理的に反省しています。
ペキン事件(本書の事件)、『海神丸』、『野火』を総合して整理すると、飢餓の極に達して、しかも絶対にそこから脱けられなくなった男達の犯す犯罪は、次のようになります。
一、たんなる殺人。二、人肉を喰う目的でやる殺人。三、喰う目的でやった殺人のあと、人肉は食べない。四、喰う目的でやった殺人のあと、人肉を食べる。五、殺人はやらないで、自然死の人肉を食べる。
この五つを比較すると、二は一よりも重罪らしい、四は三よりも重罪らしい、ただし一つまりたんなる殺人と、五つまり、殺人はやらないで自然死の人肉を食べるのと、どちらがより重い罪かとなると、そんなひかくが馬鹿馬鹿しくなるほどむずかしい問題になってしまいます。
人間を殺すこと、人間の肉を食べること、この二つの行為が、どこかおのおの異なった臭気を発散することだけは、感覚的にわかります。
何故異なるかと考えつめると、理由はごく簡単である。殺人の方は二十世紀の今日、きわめて平凡で、よく見うけられるが、人肉喰いの方はほとんど地球上から消滅しつつあるからです。」
殺人は慣れっこになっているが、人肉食いとなると「たとえどんな条件下で発生しようと、身ぶるいがするほど嫌悪の念をもよおす。「殺人は『文明人』も行い得るが、人肉食いは『文明人』の体面にかかわる。わが民族、わが人種は殺人こそすれ、人肉食いはやらないと主張するのは、優秀民族、先進人種と錯覚しているのだ。『野火』の主人公が、『俺は殺したが食べなかった』などと反省しているのは、明らかにこの種の錯覚だ・・・
このように泰淳は文明人批判めいた話しを展開をした後に、戯曲に入っていくのだが、役者のついていくつか注文をつける
船長 (読者が想像しうる限りの悪相の男)
西川 (美少年)
こうして第一幕
最初に死んだ船員五助を船長と西川が喰う
同じ船員八蔵は喰うのを拒否して死んでいく
このとき死の間際の八蔵が、五助を喰って後悔してる西川に言う
西川 おら、恥ずかしいだ。
八蔵 恥ずかしがるのは、おめえが悪い人間でねえ証拠だよ。
西川 お、おめえは喰わなかった。
八蔵 おらは、五助が死ぬ前に、(喰わないって)約束しただよ。約束さえしなきゃ、おらだって喰っただよ
約束は守らにゃね
そして衰弱しきった八蔵
八蔵 おめえの首のうしろに、光の輪が見えるだ。
西川 おめえの目のまよいだべ。
八蔵 うんでねえ。昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首のうしろに光の輪がでるだよ。緑色のな。うっすい、うっすい光の輪がでるだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと。
十日後、八蔵の肉は喰わなかった西川衰弱
西川 おら、死んでもおめえには喰われねえように、してみせるだ。
船長 何しるつもりだ。逃げるんか
西川 うんだ。
船長 何もそったらムダなことしるこたねえだ。どうせおっ死ぬなら、ここで死ねや。な、後に残るもんの身にもなってみろや。
西川 おら、海にはまって死ぬだ。おめのてのとどかねえところで、死ぬだ。
船長 何でそったら意地わるいことするだ。おめえはもっと、素直な男でねえのかよ。
西川 おめえに喰われるくれえなら、フカに喰わせるだ。(よろめきつつ、銛をてにして上手より退場)
船長 西川よ。待てや。そったらもてえねえこと、するもんでねえだ。西川よ、待たねえか。俺をひぼしにして何になるだ。(西川を追いて退場)
この第一幕の最後から、第二幕の法廷の場に移る際に役者について細かな注文をつける
この注文は重要である
「船長は、、第一幕に扮した俳優とは別の俳優によって演ぜられるのが望ましい」
「第二幕の船長は、全く悪相を失って、キリストの如き平安のうちにある。そして何よりも大切なことは、船長の顔が、筆者を案内してマッカウスの洞窟へ赴いた、あの中学校長の顔に極似していることである。」
「第二幕の船長は、野性的な方言ではなく、理知的な標準語を話す。それは、第一幕の船長が『我慢すること』」を、野性的にしか理解できなかったに反し、第二幕の船長は、それを理知的に感得していることを示す。」
本の導入部は筆者が、羅臼の洞窟へひかりごけを見に、中学校の校長に案内されたところから始まっている
そして第一幕では、船長は西川の人を食ってどんな気持ちかとの問いに答えている
船長 俺は我慢してるさ。我慢できねえこっても、我慢してるさ。これだけ我慢するな、容易なこってねえさ。
西川 我慢してるだけか。
船長 誰も何もしてくれるわけじゃなえ。なあもかんも、自分ひとりで我慢しなきゃなんねえさ。我慢ということの中にゃ、なあもかんも入っているさ。・・・・・・。何のために我慢しるか、わかんねえでもしるのが、我慢だからな。
裁判においても、検事の質問にたいして船長は「我慢」を口にする。
検事だけではなく弁護人とも平行線の交わらない応答の末、自分の首の後ろのひかりごけの光に似た光の輪を見ろという。
人の肉を喰ったものには首のうしろに光の輪が出来る
人を食った者にはそれが見えない
船長にはそれがあるはずだ
裁判長、検事、弁護士、傍聴人、みんなが見ようとするが見えない
しかし、そこには大勢の光の輪があった
「船長 見て下さい。よく私を見て下さい。
(船長を囲む群衆の数増加し、おびただしき光の輪、密集してひしめく)
(「みなさん、見て下さい。」の船長のさけびつづくうち、幕静かに下りる)
船長は観客である私達に叫んでいたのであるね

ついでにこんなのも見つけたので、ご参考にと思って・・・
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