一年の終わりに書く本
チョット強烈だけど、名作だよ
色川武大の名前を知らなくても阿佐田哲也はご存じでしょう?
もちろん同一人物で、名前によって作品ジャンルを変えていた
他にも名前があったように記憶している
題名の通り、精神を病んでいる男が主人公の話で日記風に書かれている
作者自身もナルコレプシーという脳疾患を患っていたのは有名ですね
入院中の主人公は50才の男
病気の症状は、現実感の強い幻覚、幻聴、突然の発作
睡眠中に見る夢が、かなり強烈な幻覚なのと大きなうなり声で病院内でもなかなか他の患者となじむことはない
担当医師とのやりとりも自分の病気に対する諦めと嫌悪感が先行してしまい、医師・患者の信頼関係は築けない
そんな中、病院で患者ではあるが一人の女性と出会う
28才、寺西圭子
永く入院してた彼女は、院内で手伝いをするくらいに回復していた
そして男を引き取り退院するという
男を看護するために・・・
二人の生活が始まる
本全体の中盤の始めくらいから、圭子との関係が出来、大きく話しが展開する
読んでる方も、始めは男の幻覚症状に驚きながらもこの展開辺りから、男に感情移入するのではないだろうか?
男自身も不安な危なっかしい二人でのアパート暮らし
隣近所や無理解な社会とうまくやっていけるだろうか?
案の定というか、どうしてこの社会という無理解と偏見にかたまる「市民」たちの壁は厚く高いのだろうか?
二人は次々にアパートを移り、やがてやや周囲に人気のない一軒家に越す
内風呂もあり、
「『ーーねえ、二人っきりで、初めて本当の夫婦になったみたい』
圭子はそういった。」
そして彼も思う
「精一杯、圭子と心をかよわすことにしよう。他のどんな不便よりも、圭子がそばにいてくれることをありがたいと思わねばならぬ。それくらい自分にだって出来るだろう。自分の発展の筋はそこにしかないようだ。」
しかし、現実にはうまく事は運ばない
「自分はわがままで身勝手で、病者というより欠陥者だ。弟に頼り、女に頼った。」
「自分は生きるに値しない。それを記せば身も蓋もない、のだから嫌になる。生きるに値しないのが、生きないわけにもいかない。医者のいうとおり、病院は休むところだった。生きるに値しないということを、しばし忘れさせくれた。ところが、結局、休んでもいたくないのだ。なんとかして自分も生きたいのだ。弟や圭子を食ってでも。」
こうした思いの中で、次第に圭子が帰ってこなくなる
しかし男は、「もう腹をくくることが必要」だと思う
「彼女のために、圭子のことは忘れよう。」
そうして哀しい結論に到達する
「自分がどうにかここまで生きてこれたのは、病人だったからだ。それ以外の何でもない。自分は病人、病人、病人。」
「死んでやろうと思う。ずいぶんよそよそしい言葉で、人に告げても信じるまい。自分にも未だ嘘くさくきこえる。
死んでやろうじゃない。死ぬよりほかに道はなしということだ。それで、自然死がよろしい。今日から、喰わぬ。」
その後、10ページほどでこの小説は終わる
圭子が男と共に現れ、この人と一緒なるが、男とも離れられないと言う
「『貴方のためだとはもう言わないわ。あたしのために、来て頂戴。でないとあたしが生きられない。彼との生活も、きっとこわれてしまう。あたしを助けると思って・・・・』」
もう、夢か幻覚か現実かを読み解き判断する必要もなかろう
「俺は犬じゃない」といいながら、幻想の中で男はいう
「俺も連れてってくれ、おとなしくしてるから」
生きることに、人を求めることに、そして、たやすくではなく愛することに精一杯真面目に向き合って生きた男の話である
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